top of page

効率的に文書作成の指導をするには。

執筆者の写真: Hayashi YoichiHayashi Yoichi

更新日:2月7日

前回からずいぶん時間が経ってしまい,知人から「もうブログは辞めたのか?」という問い合わせも頂きましたが(汗),なんとか日常の業務をこなしています。

 

 

そんな中でも,今年度の卒業論文が提出され,1月30,31日に発表会が行われました。

また,博士論文も提出が済み,先日,無事に口頭諮問が終了しました。

学内での細々とした決裁が残ってはいますが,まずはひと段落着いた感じです。


 

ただ,様々な論文を読んでいる中で違和感のある点は今年度も多々見受けられ,「どのように指導したら良かったのか」と反省したり悩んだりしています。

正直なところ,僕は院生時代から文章を書くことがあまり得意ではなく,未だに自分が書いた論文の文章には自信がありません。


そのため,このような悩みはこの職業についてからずっと持っています。



そんななか,先日,他のゼミの博士課程の院生と話をしていて,論文を書く上での悩みを少し聞きました。

研究に必要な測定手法は指導教員や先輩から学べるし,統計などは授業で学べる。

しかし,そのようにして得られたデータや分析結果をどう解釈して,どう考察すれば良いかが解らないことがある,という内容でした。

実は,各種の学位論文だけでなく,今年度査読を担当したいくつかの論文においても,

 (1)今回は◯◯という結果が得られた

 (2)この結果は,類似の先行研究と同じだった(または「違っていた」)

 (3)今後は今回の課題(対象者,環境,測定方法など)を踏まえた追検討の必要がある(または「追検討をしたら新しい知見が得られるかもしれない」など)

という「3点セット」のパラグラフがひたすら繰り返されるという「考察」がありました。

中には上記の(3)において,それまでに緒言,方法,結果,考察の文中に全く言及されておらず,実際には考察において踏まえることができないキーワードが急に出てきて,「なぜその話がここで出てくる?」と困惑するような考察も見受けられました。

例えば,

都市部と農村部に居住する高齢者の体力テストの結果を比較し,仮説と異なる結果が得られたことから,

「今回は,対象となった高齢者が孫と同居しているかどうかは調査していない。農村部の高齢者は3世帯で住んでいる場合が多いと予想されるため,孫と遊ぶことで身体活動量が増大し,それが結果に影響したのかもしれない」

などと考察してしまう感じです。

これは,僕が創作した文例ですが,この文章の「孫」というkey wordのように,なんの脈絡もない要因の関与をいきなり記載したり,さらに「3世帯で住んでいる場合が多いと予想される」,さらに「孫と遊ぶことで身体活動量が増大」するなどというように,根拠がない予想が記載される場合が複数の論文の複数の箇所でありました。ㅤㅤ

ㅤㅤ

もちろん,その研究で測定されたデータを蔑ろにして,いくつかの先行研究の結果を組み合わせて長々と考察したり,Over interpretationしたりすることは避けなくてはなりません。

しかし,実験や調査を行ってデータを収集しているのであれば,その統計的な分析結果が先行研究と同じだったか違っていたかだけを示して「考察」が終わり,さらには上記の例のようにもはや妄想のような論が展開されるのは,学術論文としては適切ではないと思います。

ㅤㅤ

研究仮説が採択されたのか棄却されたのか,なぜそのような結果に至ったのか,得られた数値はどのような意味があるのか,その数値を踏まえたら分析結果はどう解釈できるのか,研究の社会的意義はあるのか,など,考えることはたくさんあるはずです。

ㅤㅤ

学術論文における「考察」の文章は,ある程度の定型・モデルはあるものの,研究の背景や得られた結果などに依存して記述されるべきものではないでしょうか。



繰り返しますが,僕は文章を記述するのが得意ではありません。

自分で書いた論文は,毎回何十回も推敲しますが,それでもあまり納得できず,過去の自分の論文は恥ずかしくてあまり読み返せません。


そういったこともあり,上記の「3点セット」でパラグラフが終わってしまい,場合によっては一つの論文の考察でこういうパラグラフが何度も繰り返えされるような文章を書く学部学生や大学院生にどのように指導をしたら良いのか,本当に毎年悩ましいです。

色々なライティングに関する書籍を読み,同業者の方々に相談したりしていますが,未だ解決法や指導法の確立には至っていません。

定型をいくつか示して,自分の論文で使えそうなデータの見方・解釈の仕方を探させる,というのが現状の解決には手っ取り早いのですが,それが本人たちの学びにつながるのかはよくわかりません。

この点について,良い指導方法や学習方法があれば,本当に知りたいです。

ㅤㅤ


そんな中,アニメ「チ。」をボーッと視ていたら,

 ・文字を学んで本を読め。

 ・「物知りになる為」じゃなく,「考える為」に本を読め。

 ・無関係に見える情報と情報の間に「関り」を見つけ出して,ただの「情報」を「使える知識」に変えろ。

 ・その過程に知性が宿る。


という趣旨のセリフが耳に入ってきました。

(本来のセリフは,「チ。-地球の運動について-(小学館)」の6巻,p. 80に掲載されています)


話の最終的な着地点が「知性」なので,論文執筆とは話が違っていますが,これを聞いて「自分はまさにこうやって論文を書いてきたな」とハッとしました。


院生時代は,「とりあえず目に付いた面白そうな論文は全部読む」という状況で過ごしていました。

図書館に論文をコピーしに行ったら,目的の論文以外にもタイトルをみて面白そうだと思ったものもコピーしてきて。

でも,それがハズレだったことは良くあることで。


自分はたくさんの論文を読んで,そこに記載されている様々な記述を数多く見て,ある意味「力技」でなんとなくの定型を学んできたのだと,改めて認識しました。


ただ,できるだけ沢山の情報を習得させ,それを横に広げさせ,積み上げさせて,その上でそういった多くの知識からいつか「新芽が芽生える」ように文章が書けるようになることを期待する,というのは指導ではないように思います。



自分の文章作成方法を習得した方法を自分自身が一般化できていない訳ですから,効率良く文章の書き方を教えようと思っても,それは難しいですよね。

そしておそらく,「どのくらい作業・努力したら良いのか」というように個々人の労力が不確定で,「頑張っていれば文章が書けるようになるはず」という可能性に期待した不確実性の高い指導は,あまり好まれないように思います。


自分が行ってきた文章作成の方法を習得する過程がダメだとは思わないのですが,同じことをやっても同じような状況に至るとは言い切れない以上,学生や院生に同じ作業を行うことを求めるのは適切ではないでしょう。


これからも卒業論文や修士論文,博士論文は継続して指導してかなくてはなりません。

是非こういった身につけた「知識」や「情報」,「結果」から,芽が出るように考察が展開できるようになる指導について,同業の方々だけでなく,院生もなど含めて論議する機会があると言いな,と思っています。


少なくとも,大学内,研究科内で改めて機会を設けられたらいいですね。



Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page